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熊本出身のプロレタリア作家、徳永直の作品を顕彰する

徳永直略年譜

1899年(明治32年)0歳(※ 以降、年齢は満表記)
 1月20日、熊本県飽託郡花園村211番地(現・熊本市内)に生まれる。
 但し、戸籍上は3月9日生まれとなっており、これは母ソメが出席届を遅れて役場に提出したためで、罰金になるのを避けるため届出日を出生日とした。

1905年(明治38年)6歳
 この年までに熊本県飽託郡黒髪村坪井587番地に移住。
 4月1日、黒髪尋常小学校に入学。

1910年(明治43年)11歳
 前年度より義務教育6年制となったが、この年に通学をやめ、熊本市内の中島印刷所の見習工となる。

1911年(明治44年)12歳
 3月25日、黒髪尋常小学校を卒業。
 6学年次は2学期以降通学をしていなかったが、卒業扱いとなる。

1912年(明治45年・大正元年)13歳
 中島印刷所を辞め、九州日日新聞社の文選工となる。

1913年(大正2年)14歳
 眼を悪くしたため文選工を辞め、近所の若宮商店に丁稚奉公をする。
 このころ、寸暇を利用して講義録を読み勉強した。

1914年(大正3年)15歳
 春に若宮商店を辞め、熊本毎夕新聞社で再び文選工となる。
 このころ、黒髪村坪井大字三天堂にあった予備校錦城学館の夜間に通うも中退。

1917年(大正6年)18歳
 熊本煙草専売局の職工となる。

1919年(大正8年)20歳
 熊本電気会社第一発電所(黒川発電所)の見習工となる。
 友人の米村鉄三らと「労働問題演説会」を計画するも熊本警察署に検挙される。
 この計画が原因となり、発電所を馘首される。

1920年(大正9年)21歳
 再び九州日日新聞社の文選工となり、熊本印刷労働組合創立に参画。
 10月1日、新人会熊本支部発会式の計画に参加。
 このとき、高橋貞樹や後藤寿夫(のちの林房雄)を知る。

1921年(大正10年)22歳
 島原時事新報社(長崎県島原市弁天町)に雇われる。
 社長たちの意に反する有明湾埋立工事の暴露記事を書き、同時にストライキを決行。
 二日間工場に籠城の末、最後は暴力的に船に乗せられ追放される。

1922年(大正11年)23歳
 9月、高橋貞樹の紹介状を持って上京し、前衛社(山川均宅)の食客となる。
 民友社で植字工を数カ月したのち、博文館印刷所の植字工となる。
 12月10日、出版従業員組合が創立、博文館支部責任者となる。

1924年(大正13年)25歳
 4月30日、佐藤トシヲ(宮城県登米郡登米町出身の看護婦)と結婚。
 5月、博文館印刷所で起きた大規模な争議に参加。要求をほぼ通して争議は解決。

1926年(大正15年・昭和元年)27歳
 1月19日、共同印刷(前年12月29日に博文館と精美堂が合併)で争議が発生。
 約3ヵ月に渡る闘争の末、争議は惨敗し、解雇される。

1927年(昭和2年)28歳
 8月13日、長男光一が誕生。

1929年(昭和4年)30歳
 6月〜9月、11月号の『戦旗』に、林房雄の紹介で「太陽のない街」が連載される。
 「太陽のない街」は、小林多喜二の「蟹工船」とともプロレタリア文学の記念碑的作品となり、以降、作家生活に入る。
 11月23日、長女洋子が誕生。
 この年、日本プロレタリア作家同盟に加入する。

1930年(昭和5年)31歳
 2月、「太陽のない街」の続編となる「失業都市東京」を『中央公論』に発表。

1931年(昭和6年)32歳
 1月、「戦列への道」を『ナップ』に発表。
 7月8日、日本プロレタリア作家同盟臨時総会で中央委員に選出される。
 7月12日、作家同盟の中央委員会が開かれ、ナップ協議員となる。
 10月10日、『文学新聞』が創刊され、その編集に携わる。

1932年(昭和7年)33歳
 3月、「プロレタリア文学の一方向」を『中央公論』に発表。
 6月27日、次女みちよが誕生。

1933年(昭和8年)34歳
 1月19日、母ソメが死去し、葬儀のため熊本に帰郷する。
 9月、「創作方法上の新転換」を『中央公論』に発表。
 渡辺順三とともに日本プロレタリア作家同盟を脱退する。

1934年(昭和9年)35歳
 3月、創刊された『文学評論』の編集に参画し、編集相談役となる。
 7月28日、三女街子が誕生。
 12月、「冬枯れ」を『中央公論』に発表。いわゆる転向時代に入る。

1937年(昭和12年)38歳
 8月、「はたらく一家」を『自由』に発表。
 12月25日、『太陽のない街』と『失業都市東京』の絶版を声明。

1938年(昭和13年)39歳
 9月から10月にかけ、改造社に特派され、中国東北地方の日本人開拓移民地を旅行。

1939年(昭和14年)40歳
 1月に創刊された『文学者』の同人となる。
 5月7日、父磯吉が死去。
 2月、「先遣隊」を『改造』に発表。

1940年(昭和15年)41歳
 このころから日本の活字の歴史に関心を持ち、研究を始める。
 その成果は、『光をかかぐる人々』(河出書房、1943年11月)にまとめられた。

1945年(昭和20年)46歳
 6月3日、妻トシヲが死去。
 7月24日、トシヲの故郷である宮城県登米郡登米町に疎開し、同地で敗戦を迎える。
 11月、東京に戻る。
 11月15日、新日本文学会創立準備委員会が結成され、発起人の一人として参加。
 12月30日、新日本文学会の創立大会が開かれ、中央委員に選出される。

1946年(昭和21年)47歳
 1月、日本共産党に入党する。(戦前は非党員)
 2月20日、「『太陽のない町』の復刊」を『東京新聞』に発表。
 3月〜48年10月にかけて、『新日本文学』に「妻よねむれ」を分載。
 8月、壺井栄の妹シンと再婚するも、2ヵ月後に離婚する。(その後何度か再婚と離婚を繰り返す。)

1948年(昭和23年)49歳
 3月、『勤労者文学』が創刊され、編集人となる。
 このころ、 新日本文学会における勤労者文学運動の推進者として活動する。

1949年(昭和24年)50歳
 10月1日〜50年4月30日にかけて、東芝川岸工場(長野県)の争議をモデルとした「しずかなる山々」(のち『静かなる山々』と改題)を連載する。

1950年(昭和20年)51歳
 7月、「日本人サトウ」を『人間』に発表。
 8月、この年の1月におきた日本共産党の内部分裂が文学団体にも波及し、日本共産党新日本文学会中央グループの声明書「党中央に巣くう右翼日和見主義分派に対するわれわれの態度」の起草に参加する。

1951年(昭和26年)52歳
 1月10日、栗栖継と共同で、ガリ版刷の「新日本文学会の方針についての共同提案」を、新日本文学会会員らに配付。
 5月2日、同じくガリ版刷で「私の自己批判」を発表。『前衛』7月号に掲載。
 以降、新日本文学会を離れ、『人民文学』派に拠る。

1954年(昭和29年)55歳
  3月1日から12月15日にかけて、『アカハタ』に「静かなる山々」第2部を連載。
  12月、ソ連作家同盟から第2回ソ連作家大会に招かれ、岩上順一とともに出席。

1956年(昭和31年)57歳
  8月、「草いきれ」を『新潮』に発表。
     破婚問題を起因とするモデル問題をめぐって、壺井栄と論争する。

1957年(昭和32年)58歳
  7月〜11月号の『新日本文学』に「一つの歴史」を連載。未完のまま遺稿となる。

1958年(昭和33年)59歳
  2月15日、末期の胃癌により死去。
  2月19日、告別式が行われ、多磨墓地に葬られた。



            参考文献:浦西和彦『人物書誌大系1 徳永直』(日外アソシエーツ、1982年5月)

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